私はずっと、「人はどこへ向かって生きているのだろう?」という問いを立て続けていました。
成功なのか、成長なのか、幸せなのか。
でも、そのどれもしっくりこない。
もしそれが本当に“ゴール”なら、なぜ成功しても幸せとは限らず、成長しても満たされず、どこか心が置き去りになるのだろう。
目標を持つことは悪くない。成長することも素敵なこと。
でも、いつからだろう。
私たちはいつの間にか、
“存在”ではなく、“役割”や“機能”で自分を測るようになった。
役に立つ人は価値がある。
成功した人は素晴らしい。
好かれている人は意味がある。
では、
何もできない時の自分は、価値がないのだろうか?
ただ疲れて横になっている時間、
ただ悩んで立ち止まっている時、
何かを生み出せず無意味な時間に感じる。
それは、本当に「価値がない」のだろうか。
そんな疑問を追いかけるうちに、ふと自然に目が止まりました。
川は、川としてただ流れている。
木は、木としてただそこに立っている。
では、人は?
人もまた、本来は「人として存在すること」に価値があるのではないだろうか。
存在に「正しさ」や「意味」や「価値」を持ち込むのは、
人間だけなのかもしれない。
でも、人もまた、自然の一部。
本来は、「人として存在する」だけで、もう十分なのかもしれない。
私たちは、
生きるために食べるのではなく、食べたいから食べる。
回復のために眠るのではなく、眠たくなったら眠る。
健康のために動くのではなく、動きたくなったら動く。
感情も同じ。
意味づけや我慢や修正をする必要はなく、ただ“感じたままでいい”。
心と体は何かを「しなければ価値がない」のではなく、
何もしなくても、すでに価値を生み出している。
それは怠けでも、甘えでもない。
身体と心が、「今ここに生きている」ことを、ただ表しているだけ。
私たちのからだは、いつも今を生きている。
頭の中だけが、過去や未来へ忙しく旅をしている。
本当の安心は、
“何かを成し遂げたとき”に訪れるものではなく、
“何もしなくていい”と思えたときに訪れる。
本当の価値は、
“何かができたから”生まれるのではなく、
“何もできなくてもいい”と思えたときに訪れる。
ところが現実では、
「成功しなければいけない」「役に立たなければ存在してはいけない」
「若くなければ、綺麗でなければ、お金がなければ…」
そんな“条件付きの価値”の中で、自分の存在を測るようになってしまった。
なぜそんな発想になったのか?
それは、幼い頃の経験が大きい。
何かができたから褒められた、役に立ったから受け入れられた。
逆に、“ただそこにいるだけ”では、受け入れてもらえなかった。
そこから私たちは、“存在”ではなく“機能”で自分の価値を測るようになった。
努力すればするほど、本来の自分から離れていくという構造の中で。
でも本当は、誰かと比べなくてもいい。
正しさや優秀さで、自分の存在を証明しなくてもいい。
好かれる自分を演じなくてもいい。
心が感じたことは、そのままでいい。
悲しければ悲しくていい。
嬉しければ嬉しくていい。
不安なら不安なままでいい。
感情を整える必要なんてない。
ただ、自分の中で流れているものを感じてあげるだけでいい。
私たちが本当に求めていたのは、
「認めてほしい」よりも「否定されないこと」
「特別になりたい」よりも「ありのままでいたい」
「役に立ちたい」よりも「ただ存在を受け入れてほしい」
要するに、私たちは突き詰めれば、
“無条件に受け入れてくれる環境”と“無条件に自分を受け入れられる感覚”
を求めて生きているのではないだろうか。
人は「もっと何者かになろう」として生きているのではない。
本当はずっと、
「ただ、人として存在していい」という感覚に帰ろうとして生きている。
大人になっても、「無条件に愛される赤ちゃん」のような状態を求めているともいえるだろう。
ただただ、
歩きたくなったら歩く。
立ち止まりたくなったら立ち止まる。
ぼーっとしたくなったらぼーっとする。
声を出したくなったら声を出す。
黙っていたくなったら黙る。
触れたくなったら触れる。
離れたくなったら離れる。
好きになったら好きになる。
会いたくなったら会う。
見たくなったら見る。
聞きたくなったら聞く。
話したくなったら話す。
抱きしめたくなったら抱きしめる。
飽きたらやめる。
疲れたら休む。
またやりたくなったらまたやる。
それが、存在としての生き方。
自然に沿った、人の在り方。

コメント